名前を呼ばせて







風間の住む土地にきて数か月。
千鶴もだいぶこの地に慣れて、鬼の人たちとの生活を穏やかに過ごしていた。


そんなある日の夜。
風間家。
風間はいつものように居間で酒を飲み、千鶴は台所で夕食の準備をしていた。



「・・・千鶴。酒が切れたぞ。」

居間から声をかけられて、千鶴は台所から顔を出す。

「風間さん、今日はもう駄目です。飲みすぎですよ。」

「・・・・・・・いいから持ってこい。」

遠目に見える表情にはわからないが、
その声に明らかな苛立ちを感じて、千鶴は首をかしげる。

「・・・・はぁ・・・」

仕方なく千鶴は酒を一本、持ち出す。
風間の横に腰を下ろし、コン、と彼の前に酒を置く。
風間は何も言わずに、自らそれを注ぐ。
そしてその酒を千鶴の目の前に差し出す。

「・・・・風間さん?」

「飲め。」

「え!?わ、私は飲めませんから!」

「少しくらいなら平気だろう。たまには付き合え。」

「・・・・・・」

不機嫌な声。
確かに毎回、風間は一人で酒を飲む。
千鶴が飲めない為、仕方がないのだが、それでも少し気が引けていた。

それで機嫌が悪いのかな・・・

そう思って千鶴は酒を受け取る。

「じゃ、じゃあ少しだけ。」




そよそよと夜風が木々を揺らす。
空には満月が出ていた。

酒を飲み始めてから半刻。
千鶴はすでに顔を赤く染めて、ひっくと喉を鳴らしていた。

「ひっ・・・かざまさーん・・ひっっく」

まだ少ししか飲んでいないのに、この酔い方。

「・・・・弱すぎるな」

呆れたように風間は溜め息をつく。

「かざまさ・・ん・・ひっ・・く・・・・」

言いながら、千鶴は腕を風間の首に回して、抱きついて来る。
酒の匂いと千鶴の甘い匂いが、風間の鼻腔をくすぐる。
普段甘えない千鶴が甘えてくることに、自然と頬が緩む。
抱きつかれた体勢のまま、風間はくい、と酒を飲む。

「たまには、こうゆうのもいい。」

・・・と、そのうちに千鶴が静かになる。

「?」

不思議に思って顔を覗き込む。

「・・・・どうした、千鶴」

見ると千鶴の頬を涙が伝っていた。

「・・・・だって〜・・・」

「・・・・・泣き上戸か?」

「違うです〜・・・ひっ・・・かざまさんにー・・・ひっく・・・お願いが、あるんです・・・・」

「願い?・・・・なんだ」

涙を指でぬぐってやりながら、静かな声音で問う。

「・・・・名前で・・・呼びたいです・・・」

「・・・・・は?」

「だから〜・・・名前で・・・呼びたいんです、風間さんのこと」

「・・・・・」

意外なお願いに軽く眼を見開く風間。
ひっく、と酒の息をする千鶴を見て、クスッと笑う。

「呼べばいいだろう。勝手に。」

「・・・・・・はずかしい・・・・です。呼びたいけど・・・恥ずかしいの・・・」

言いながら、涙がまた零れる。

「・・・」
泣くほど呼びたいなら、なぜ呼ばないんだ・・・?

呆れながら、また涙をぬぐってやる。

「恥ずかしいも何も、・・・夫婦なれば当然のことだ。」

「う〜・・・でも・・・・」

頑なに恥ずかしがって俯く千鶴。
そのうちに、どうしても呼ばせたくなってくる。

「早く呼べ。千鶴。」

「ん〜・・でもきょうはー・・・なんか・・・怒ってますかあ?風間さん・・・・」

酔いながら敏感な質問をしてくる千鶴に、風間は器用に片眉を上げる。

「・・・・・ああ。」
人の機嫌には敏感なくせに、その理由には全く気付かない・・・。
よくわからん女だ・・・。

「じゃあ、呼ぶのやめときます・・・ひっく」

は?と思いながら風間は千鶴の顎をとらえて、上を向かせる。

「なぜ俺が怒っているか、知りたいか?」

うん、と頷く千鶴の耳に、そっと口を寄せる。

「お前が。いつまで経っても俺を名で呼ばないからだ。」

低い声で言ってやれば、千鶴はふるり、と体を震わせる。
酒でとろりとした目を風間に向けて、千鶴はゆっくり口を開く。

「ち・・・・・ちか、千景・・・さん」

風間は自分の心臓がどくん、と脈打つのを感じた。

「千景さん・・・千景さ・・・」

何度も何度も呼ぶ。
呼ばれるたび、愛しさが溢れて来る。

「千鶴」

呼んでやると強く抱きついて来て、耳元で名を呼んでくる。

「千景さん・・・千景・・・さ・・・」

すう、と寝息が混じる。
肩元に顔を寄せる千鶴を覗くと、すうすう、と寝入っていた。
ふう、と風間は溜め息を吐く。
くい、と酒を飲みほし、杯を置くとそっと千鶴の髪を撫でてやる。

「・・・・寝ぼけたままで呼んでいたのか。まあ、この様子を見れば一目瞭然だが。」

・・・・千鶴の返事はない。
風間はクスッと一つ笑うと、まあいい。と漏らす。

「今度は起きている時に呼んでもらうぞ、千鶴。」

言って、額に口付ける。

俺もなかなか・・・子供だな。

風間はくつくつと笑って、抱き合ったままの格好で目を瞑る。

明日、一番に名を呼ばせようと決めた。